バタリアンの思い出

国立映画アーカイブ(旧フィルムセンター)で「バタリアン」の上映。

NFAJ所蔵 現代アメリカ映画選集 | 国立映画アーカイブ

 

すげー熱烈なファンではないけどバタリアンに小5の僕は衝撃を受けまくった。

初見が金曜ロードショーでその後はビデオなのでスクリーンではみたことがないのですよ。

(なので今回の上映が楽しみ)

水野晴郎 解説 バタリアン - YouTube

この、金曜ロードショー水野晴郎氏の解説がいたく懐かしい。 

バタリアンのサントラも印象的。

 

 

バタリアンは原題がThe Return of the Living DeadでロメロのNight of the Living Deadの続編的なパロディで85年の作品。

監督、脚本はダン・オバノン

名前がバタリアンとオバンバが混ざった様なニュアンスでとても印象深い。

彼はエイリアンの脚本で有名ね。

その他、スペース・ヴァンパイア、スペース・インベーダー(Invaders from Mars)、ゾンゲリア(Dead & Buried)などなど80年代のSFホラー手掛けてるけど、どれも素晴らしい!

ちなみに"スペース・インベーダー"ははじめて僕が1人で映画館へ行ってみた作品(同時上映はショートサーキット)

 

当時はそんなことは知らず「バタリアン」をテレビでみたけど、怖くてビビった。

 

今見ると明らかにコメディ映画なのだけど10歳の僕には刺激が強く、そう受けとるには時間がかかった。

 

序盤にゾンビ・ガスにより倉庫の標本が蘇るとこ、特に犬ね。真っ二つにスライスされた標本の犬がキャンキャン鳴いてるのは可愛そう+不気味だし、さりげなく蝶の標本がピンで止められたまま羽ばたいてる。あーいう描写すごいね、生々しい、今改めて見ると素晴らしい演出。

 

そんで検体用の死体の復活。

全裸で走ってくるのが怖い怖い!

肌の色もなんか黄疸ぽくて不気味。

絶妙な死体色。

かなりビビった。

しかもバラバラにしても各パーツ動いてるし。

バタリアンでは脳を破壊されても死なない設定。

 

死なないというか活動停止しない。

 

ビニール袋に入れても各パーツがガサゴソと動いてるのが想像を掻き立ててコワイ。

 

燃やすしかないんだよね、ゾンビ達は。

 

そんで燃やすとその灰を浴びると人間はゾンビ化してしまう。

という悪循環!

(ここで描かれるゾンビは軍による実験で死体が蘇ったという設定。化学薬品に浸されてるから焼却するとその成分が飛散する。物語の冒頭で諸々それらの説明が自然にされるシナリオが見事)

 

核による死の灰を連想させるのでやはり僕はビビリまくった。

 

当時の僕の担任の先生は道徳の時間かとかで原爆、核の恐怖(反核)やホロコーストの写真集とか持ってきてみせる人だったので戦争、虐殺、核とかの恐怖が相当植えつけられていた。

 

で、僕にとっては86年にはチェルノブイリの事故の影響もでかい。あの時は怖かったー。

学校行く前にニュースでチェルノブイリの事故報道をやってて、放射能の灰が日本にもやって来る!とか過剰に怯えてた。

 

その日の図工の時間に同じくチェルノブイリで不安になっていたクラスメイトが担当の先生に質問していたんだけど

 

彼は"核の灰は3、4日で日本にやって来るよ"

 

陰ながら僕は聞いていて1人恐怖していたのを思い出す…。

 

 

ということがあっただけに、僕にとってバタリアンの設定はそれらを具現化してるようで恐ろしかった。

(実際、当時はまだ冷戦中であったので核の恐怖は実際作品に反映されてただろうね)

 

劇中、ゾンビ灰入りの雨を浴びて人々は痛がる描写。酸性雨の濃い的な雨ね。こういう描写大事だね。

 

そんで寒いーとかいって、具合悪くなって徐々に死体化。

生きているのに死後硬直が始まる!

"死後硬直"という言葉もこの時知った。

 

ビビりながらみていると

中盤、チンピラ・グループが墓場でパーティーするんだけど、その中でパンクな女がゴキゲンなノリで全裸になって墓石の上で踊りだす。

幸運にもその時は僕1人で見ていたのだけど、怖がっていた最中での裸なので安心してエロさを受け止める余裕がなく、戸惑ってしまった。

 

同じ全裸でも序盤の検体ゾンビと対照的。

しかも、当時の僕にはなぜ裸で踊りだすのかイマイチ理解し難いものだった。

スッポンポンで堂々と踊る姿は衝撃的過ぎて、あれは僕の見間違えだったのか?幻か?とまで思ってしまった。

当時、ビデオがなく録ってなかったので見直すのはしばらく先のことになる。

 

その時、ゾンビ灰入りの雨が降り注ぎ全裸女はその後ゾンビ化。

 

でその後、ゾンビ達を率いて人々を襲うわけですよ。

ちなみにバタリアン(Battalion)は邦題だけど大隊とかいう意味。

 

てっきり、造語でゾンビのことを指す名前かとしばらく思ってたよ。

 

バタリアンの革新的な設定はゾンビはバラバラにしても死なず、灰を浴びるとゾンビ化するというとこ。

そして、"脳"が好物であるという設定はインパクトでかい。

彼らはゾンビでいることの肉体的な苦痛を和らげるために人の"脳"を求めてしまうのですよ。

 

この設定の素晴らしいところは、脳を求めるので他の肉(部位)を喰わないという点。

 

これなら、人間襲っても脳ミソだけ食べしまうので食い残し問題は解消される。

(襲われた人間は全身食べられてしまうとそもそも物理的に存在しないのでゾンビにならないからゾンビの数は増えにくい)

脳だけ食べられるので体はあるのでそれらがゾンビ化するのでゾンビの数は増える!

 

劇中、ゾンビどもが「脳ミソ〜!」と脳を求めて叫ぶ姿が印象的。

 

実際、翌日学校で、僕はいつもの友達と"バタリアンごっこ"ですよ。

ふやし鬼(鬼ごっこで捕まると鬼は交代せずに増殖する鬼ごっこ)で鬼になったら脳ミソ〜と叫びながら(あえてゾンビっぽく遅めで追いかけるという遊びをやってた。

 

(ちなみに、その前は"エイリアン"みて同じような"エイリアンごっこ"したのを覚えてる。楽しかったなー)

 

いちおう、捕まったら脳みそ喰われる演技入れて、ゾンビの足が遅いのでエリア限定しての追いかけっこで遊んだ。

もう、僕の中では昨夜見たバタリアンの世界ですよ。

 

当時の僕の周りには同じような映画好きな友達がいたのでこういうことよくやっていたのです。

(これはこれで面白いことがあるのでまたいつか記します)

 

バタリアンは怖い映画体験だった故に敢えてそれを再現して恐怖心を克服するということをしていたのだと思う。曝露療法ってやつですね。

 

バタリアンで印象的なキャラクターは

"タールマン"

全身ドロドロでタールまみれで骨が露出しる容貌。

そんでデカイ。今見ても見事な造形。

The Return of the Living Dead (8/10) Movie CLIP - Punks vs. Zombie (1985) HD - YouTube

 

これはインパクト大。

 

同時、僕の小学校では田植え→稲刈り→収穫→餅つき、という学校行事があったのですよ。

 

そんで、田植え後は案山子を作るのですよ。

しかも父母参加授業でね。

 

 

ここからが本題なのです。

 

クラスの中で各班ごとに案山子のデザインを決めて、後日の父母参加授業で親子で案山子を作るという流れ。

 

僕はタールマンに心を奪われていて、タールマンの案山子を作りたかったわけです。

班の中ではタールマン案山子にOKが出たのですよ。

 

素材は紺色のジャージ(学校指定のジャージのお古を使える)と黒いゴミ袋。それらをボロボロにして組み合わせる。

腕は肩からだらりとぶら下げて風でブラブラさせる。

目玉はピンポン球で歯は発泡スチロール。

 

デザイン画を描いたわけですよ。

 

 

よーし、これでタールマン案山子ができるぞー!

 

やる気満々

 

 

そんで、父母参加授業の当日。

 

各班ごとに案山子を作ることに。

骨組みとなる竹と藁は学校で用意されている。

 

画用紙に描いたタールマンのデザイン画を手にした僕。

 

にもかかわらず、同班のA子の親父が仕切り始めた。

 

手際よく竹を十字に組み立て、藁で肉付けし始めた。

 

あれ、なんか違うぞ!

腕はぶら下げにしたいのに定番の両腕を水平に伸ばした案山子を作り始めた!

 

これは違う!

俺たちの作りたい案山子はこんなんじゃない!

 

デザイン画をA子の親父にみせるが、

無視される。

 

どんどん手際よく勝手に作っていく。

 

おそらく彼からしたら手慣れた作業で張り切ってやってるつもりなのだろう。

聞く耳を持たず、典型的な普通の両腕を広げた案山子を作っていく。

 

当時の僕はそこまで押しが強くなく、

うまく意思を伝えられないでいた。

弱気。

 

あー、もう腕はだら〜んと垂れ下げられない!(風で揺れるのを想定)

 

しっかりと水平に広げた両腕が作られてしまったのだ。

 

で、彼は

「着せるものは?」

 

僕らはタールマンを作るつもりなので紺色のジャージと黒いゴミ袋しかない。

 

A子の親父「これしかないのか⁈」

 

もう完全にデザイン画みてない。

みてくれない。

というか分かっていないのだと思う。

 

くそー!勝手に作ってやがる!

 

無理矢理、紺色のジャージを着せて

更に黒いゴミ袋を巻きつける。

 

なんとも無残な姿。

 

ジャージの生地はボロボロに割いて質感を表現したかったし、何よりも腕はぶら下げたかった…。

 

A子の親父の頭には普通の案山子しかなかったのだろう。

 

結果、見るも無残な両腕を横に伸ばした目玉と歯しかない顔の案山子が完成。

 

本来、思い描いていたタールマンとは程遠い案山子が完成。

 

 

ワンマンな親父の押しの強さに誰も異を唱えられなかった。

 

全くタールマンじゃねーよ!

 

俺の作りたい案山子はこんなんじゃねー!

 

弱気な自分を呪うしかない。

 

今思えば、A子の親父は彼なりに

 

「案山子作るどー!おれは作り方知ってるどー!おれに任せろー!」

 

と張り切って無我夢中で案山子作っちゃったんだろうとは思う。

 

ワンマンぶりに誰も止められないまま。

他にも親いたのになんもしてなかった。

 

何よりも、我々が何を作りたかったのかが伝わってないことが残念と同時にやるせない気持ちでいっぱい。

 

A子の親父に気圧されてしまったのだ。

 

こういうのを作るつもりだ!

と僕は意を決してデザイン画を見せたけどスルー。

 

あー、情けない。

残念な気持ちは今でも思い出せる。

もっと強く主張出来たらなと…。

 

悔しいのは敢えて紺色の生地と黒ビニールだけで作りたかったわけなのに、(案山子に着せる)服がまともなないとA子の親父に言われたことだ。

くそー!

 

つい人は、自分ができることや得意なことがあると必要以上にやり過ぎてしまう時がある。

自分1人でならいいけど、周囲の意見や意図を無視して暴走する恐れもあるということはある程度意識していた方がいい。

良かれと思いつつも、他者の意見というか意図してることを聞かないということになりかねない。

これは逆に現在の僕が気をつけるべきことでもある。

と同時に弱気さからの妥協はせずに意見は主張する。そこ大切。

 

 

 

さて、学校での稲刈り後、

収穫祭として収穫した餅米で餅つきして、

校庭の真ん中でウィッカーマンの如く案山子達と藁を焼くのですよ。(ついでに焼き芋も焼く)

 

こんな案山子なんかさっさと焼かれてしまえ!

燃えて、灰は空へと舞い上がる

 

あの出来損ないのタールマンの姿は今でも鮮明に覚えている